外来クリニックに勤めている准看護師です。いつも皆様の相談事に投稿させて、私の拙い回答を読んで頂きありがとうございます。
今回は相談者として投稿させて頂きます。
今年6月29日に私の実母が88歳で旅立ちました。鬱血性心不全で入院中、最期は二次救急病院で急性大動脈解離が見つかり、三次救急の病院に救急搬送、翌日亡くなりました。
キューブラーロスは死の5段階で否認、怒り、取り引き、抑うつ、受容とあるといいますが、本当にその通りだなとわかります。
仕事の時は仕事ですから、ナースとしての自分がいるので主任という立場もあり、しっかり院長や事務長、皆のサポートをしなきゃ、いつもくる患者の為に笑顔でいなきゃと気が張ってます。
ただ、家に帰ると、寂しくなり今でも声を出して泣く自分がいます。私は今息子と二人暮らしです。
本当は私と同じような境遇の方とお話できればと思います。ただ、人は人が死んだことについて、儀礼的に物事は話すけど、何故か死については避けたい傾向があるのもわかります。
だからこそ、話せなくなって何年もこの気持ちのままでいて、本当に支えてた家族が具合悪くなったということもよくあります。
私の言いたいことは、緩和ケアだけでなく、グリーフケア「遺族のケア」ももっと普及されたらと願うばかりです。私と同じように親ロスを抱えて生きている方おりますか?長文失礼いたしました。
家族とは 色々な かたち で成り立っているものですね。
私には 80歳になる母が近くにおります。
訳あって 私の妹の娘、つまり私の姪、母からすると孫と同居しています。
おかげ様で 私の母は元気、そして 他のスレで投稿したくらい 正直重いです。
私は 父を31年前 亡くしました。突然でした。
くも膜下出血でした。
その日の朝を向かえ その日の夜 日付の変わる10分前に 死んでしまいました。
今 こうして 文字を書いていても 涙があふれてきます。
無口だった父。なぜか 怒られたことなかったんです。
子供も孫も 女の子で 生きていたら 私の双子の息子たちを見せたかったのに。
私の試験のため 交通手段のない雪道を 一緒に歩いてくれた父。
遠い昔の事ですが 思い出さずにはいられません。
昭和の時代しか知らず 嫌いだったソビエト連邦も崩壊し 平成の世の中も知らず その平成すら変わるかもしれない。
時がいくら経っても 55歳の父は 私の中では そのままです。
私の場合は、結婚してすぐに両親を亡くしました。
母はクモ膜下出血で、入籍を確認したかったのか
会いに行って、いつものように私の好物を
作り「旦那さん、大事にしなさいよ」そう言って
私の車のバックミラーから姿見えなくなるときまで
手を振り見送ってくれた・その翌朝に還らぬ人になってしまいました。まだ59歳。父はそのショックもあり
持病の肝不全から入院し、医療ミスになるのですが
塞栓が飛び、入院日数もさほどなく
私たち姉妹に看病させることもないまま、母の側に
逝ってしまいました。父は60歳。2人とも年金も
貰わず、働いて働いて、西から上京して
北海道旅行にもつれていけないまま、
姉が38歳、私が28歳の冬の出来事です。
あれから22年達、姉は60歳、私は50歳
未だに、こうやって文章すれば
胸か詰まりそうなくらい、寂しいです。
子供にも恵まれませんでしたから
自分が親の責任や自覚がないまま過ぎてしまって
成長していませんね。
ただ、2人の声を聴きたいとは
時々思いますが、姉にも私の夢にも出てきては
くれませんから、あちらでやっとのんびり
過ごしているのかな?とは思っています。
命日が近くなる、寒い時期は
本当に寂しい‥。
私も6歳の時に先に父親をくも膜下出血で亡くしました。父親は私のことを可愛がってくれました。
それから母親との二人きりの生活が始まりました。生前は母親と喧嘩もしたし、友達と遊んでいて、つい、帰りが遅くなると文句を言って、うるさいといつも思ってた。自分が調子悪い時は仕事を休んでほしい、それでも仕事に行こうとすると、ひねくれて、ブツブツ文句を言われる。そんな母親でも、本当に最期は、何もしてあげられなかった自分に後悔してます。
今私に血の繋がりがある身内は息子一人となってしまいました。一人で息子を育てていかなくてはなりません。そんな時にいつも泣いてしまうのですが、泣くということは、あれだけ重いなーと感じてた母親が亡くなってから強くて偉大な母親だったのだとようやくわかりました。
めねこさんもお母様はまだ元気だから元気が花のうちと思って、うるさいと思うこともあるけど、今しかできないことを、沢山の思い出をつくってあげて下さい。
今は重いだろうけど、そのうちきっと母親がいてくれた意味がわかるかなと思います。
父を1ヶ月前に遠距離介護の末亡くしました。時折「私の人生も終わったな、生きている意味もないな」と思います。親戚から不調(消化器症状)を知らせる電話があり、心臓も悪いんだから病院に行くように父に促しましたが「大丈夫。行かない」と拒否。誰が勧めても拒否。他の症状なく、車に乗せてもらい外出したり減ったものの食べられていたので週末帰宅時の対応で大丈夫かと判断しました。あの時、「無理やり連れて行って下さい」と頼んでいればとの後悔は消えることはないです。症状悪化し翌日、午後、歩いて診察室に入りましたがそのまま入院(一般病棟)翌朝には人口呼吸器をつけ約一週間で逝きました。平均寿命を超え、ギリギリまで父が父らしく自宅生活を送れたことは、人はいつかは死んでしまう事実から思えば「幸せな人生だった」と思うしかないですが、たまたま仕事で実家に帰ることができなかった週での出来事であった為、帰れていれば今回は死なせずに済んだのにとの思いもあり「ごめんなさい、ごめんなさい」と涙します。人生の無情を感じますが、80になっても90になっても親の死の話で涙する患者さんを見て、人は皆こんな悲しみを胸の中に押し隠して生きているのだなと、特に人生の先輩達の悲しみや強さに思い至り、残りの人生、親に恥ずかしくないように生きなければとも思います。
現在末期の叔母も「もうすぐ父母や姉のいるところに行けるんだと思ってる」と笑顔をつくっていました。
自分を無条件で愛してくれた存在を失った悲しみ、その愛を少しでも返せていただろうかの後悔と懺悔。
親に愛されて親を愛せた事に「ありがとうございます」と生きるしかないのでしょうね。
はむ様 コメントありがとうございます。
そうですね、元気でいてくれること 有りがたく思い 母のこと 大切にしていきます。
最近 感じました。
あれほど きれい好きだった母も なかなか 掃除が思うように出来ないようで、、、台所の汚れとか 目につくようになりました。
見守っていきたいです。
私も、あの時、もっと前に気づくべきだったと思う時あります。二次救急病院に入院中、血圧が70台から80台にありました。病院職員のナースは鬱血性心不全でラシックスを使用している影響だと話してました。入院まもない頃は不穏もあり、検査ができなかったということです。入院して10日すぎ位から衰弱も激しく、意味不明な言動がみられ、その時初めて、不穏が落ち着き検査したところ、大動脈解離がみつかり、三次救急の大学病院に搬送されました。99%助からないと。もう、諦めるしかありませんでした。
最期の大学病院でやっと苦しみから開放されて、死ぬ直前まで刻み食を食べることができたのが、母親にとっては奇跡だったと思います。
最初の頃は二次救急病院に対しての怒りが込み上げてきて、私自身苦しかった。
今ようやく少しづつ、私自身、母親の死を受け止められつつあります。
しかし、まだ悲しみから立ち直れない自分がいます。
私はハムさんより3週間くらい前に母を亡くしました。
百歳を越えていたし、別れが近いことはわかっていましたが長時間歩けない以外はとても元気で縫い物や洗濯を畳むなど手伝ってくれていたので急逝が受け入れられませんでした。
傍にいたのに異変になぜ気付かなかったのだろう、なぜ母から離れて夕食の支度をしたのだろうと悔やみました。心肺停止状態で発見する30分前まで昼寝はしていましたがバイタルも安定していましたし、全く予測できませんでした。長らく仕事をしてきたのに・・・観察力不足を恥じました。
救急車で病院に運んでもらいましたが最後まで自宅で過ごせ、認知機能に優れ、96歳まで一人暮らしができたので天寿を全うしたとは思います。
49日が済むまではなにかとバタバタしていましたが納骨が済んでからは寂しい気持ちに支配されるようになりました。家族はいますが実家の片づけをしていると誰も住むことがない家に残された荷物整理が苦になることがあります。墓には3日ごとにしか行かないので実家の荷物整理も1時間もすれば継続できず帰ってきてしまいます。車で5分くらいなのですぐに行けますが実家の片づけにまで気持ちが追い付いていないように思います。
夫にも子供達にも親ロスのことは話さないけれども気持ちを共有できる場があることはうれしく思います。
はむ様 コメントありがとうございました。
匿名で初めて 文章として思いを吐き出すことができて、又、同じような思いを抱える方のコメントを読むことができて私にとってグリーフケアの場となりました。感謝します。
それにしても、母を見送った時、何も知らなくて「辛い」と思い看護師になりましたが、父を見送る時は「(知っているからこそ)辛い」と思いました(医師の言葉や対応含めて)。結局見送る時の「辛い」は変わりませんでした。
受容するまでは時間かかりますよね。
私も母親が6月10日に入院して、血圧が70台から80台で経過していた時に、そろそろかな、とは心の中で思ってました。
でも、患者の家族の立場になって、どうしても心の奥底には受け止めきれない自分がいました。
今でも朝、目が覚めると、ふと、居るのではないかと錯覚するときあります。
私は実は、納骨していないんですよ。埋葬許可証もあるし、父親のお墓にすぐにでも入れるのですが、今の心理状況でもし、骨を埋めてしまうと、自分が壊れてしまいそうで。
今は毎日、私が作った食事を母親の遺骨の前に置き、息子と一緒に食事をとってます。
そう、生前と変わらずに。いつも一緒だと私も息子も思ってます。
来年一周忌がきたら、父親の墓に埋葬するつもりです。
それは私自身のわがままかもしれない。
ただ苦しみを分かち合える人は、そう多くはないから。
今でも思い出すんですよ。危篤になってから、最期のことばが
あーちゃん、何処?って看護師に言ってたそうです。
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